動的均衡

世の中には、
ありとあらゆる健康に関する情報が
飛び交っている。
どれが有益で、どれが有益でないかなど、
判断のつけようもない。
実験結果の名の下に、
様々な数字やデータを並べられると、
科学者が言っているのだからそうなのかと
思わされてしまっても仕方がないなあと思ってしまう。


自分にとっての最高の健康法は、
自分の体に聞いてみるしかない。
ある人にとっては良い健康法が、
ある人にとっては効果がないというのは、
よくある話だ。
自分にとって有効だと思うなら、続ければよい。
ただし、それを人に押し付けるのはどうかと思う。


自分が行っている健康法を
唯一絶対視している人が結構いる。
しかし、その健康法が有効かどうか、
誰が正しく判断できるのだろう。
過去を調べてみれば、
当時は常識と思われていたことが、
時の経過、科学の発達と共に、
誤りであったなどということは
山ほどあるわけで・・・。
今、常識と思われていることも、
10年先、20年先、100年先には、
『とんでも理論』であった
ということになる可能性は十分にあるのだ。


やはり、
物事を多方面から観察する習慣をつけることは大切だ。
1つの機能、1つの側面にのみ注意を向け、
「よい」
と判断してしまうと、
違う機能、側面が見えたときに、
「だまされた」
となってしまうからだ。


物事を判断する場合、
よりどころとなる軸が必要だ。
この思考のベースは、人によってそれぞれだが、
私の場合、
ルドルフ・シェーンハイマーの
「動的均衡」が
それである。


シェーンハイマーは次のように述べている。

生物が生きているかぎり、
栄養学的要素とは無関係に、
生体高分子も低分子代謝物質もともに
変化して止まない。
生命とは代謝機械の持続的変化であり、
この変化こそが生命の真の姿である。
(「もう牛を食べても安心か」 福岡伸一 文春新書)

私たちはなぜ食べるのか。
ガソリンを燃焼して得られるエネルギーが、
エンジンを動かすように、
食物を燃焼させ、
そのとき得られるエネルギーを使って
生命を維持するという役割ばかりではない。


エネルギーを生み出すためだけなら、
糖(炭水化物)と脂質(油)だけを取ればよい。
しかし、人間(生物)は、
タンパク質を食べなければ生きていけない。
これは、人間が生きていくために必須な元素である
N(窒素)を取り込む必要があるからだ。


シェーンハイマーは、
窒素の同位体(目印を付けた窒素原子)を使って、
アミノ酸を作った。
そして、このアミノ酸の足取りを追跡する
という実験を行った。

食べた標識アミノ酸は、瞬く間に全身に散らばり、
その半分以上が、脳、筋肉、消化管、肝臓、
膵臓脾臓、血液など、
ありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の
一部となっていた。
しかし、その標識アミノ酸はそこにとどまることなく、
しばらくすると分解されて体外に排出されていった。
分子や原子のレベルでは、
私たちの身体は数日間のうちに
入れ替わっていることになる。


アミノ酸配列は、情報を担っている。
つまり、体に吸収されると
新しいタンパク質を構成し、
新しい言葉を作りだしているのだ。
さらに複数のたんぱく質が組み合わさって、
より高度な文章を作り上げている。


消化とは、
「食べ物を吸収しやすくするため細かくする、
という機械的な作用よりも、
もとの生物が持っていたタンパク質の情報を一旦解体して、
自分の体内で自分に適合した形で情報を再構築するための、
出発点になる」
という意味を持っていることになる。


さらに、体を通過していった
酸素、水素、炭素、窒素などは、
自然環境の中を巡り、
再び人体に取り込まれるというように
自然環境と生物の間を循環し、
全体として動的なバランスをとっている
というのが、「動的平衡」の理論である。


この「動的平衡」を思考のベースにおくと、
身体によい食べ物がどんなものか、
かなりクリアになってくる。


「食べ物はできるだけ遠いところのものを食べよ」
という教えがある。
これは、地理的な意味での遠いではなく、
生態学的な意味での遠いである。
タンパク質を言語に例えると、
自分と近い種、あるいは同種の生物が持っていた
情報というものは、
それだけ、接近した言語であるため、
それがそのまま体内に取り込まれると
干渉が起こりやすいわけだ。
狂牛病は、肉骨粉が原因といわれているが、
典型的な共食い病ということになる。


この考え方にたてば、
野菜や果物が身体によいというのは、
すんなりと腑に落ちる。
また、生態学的に、
魚、鳥、豚、牛の順に遠い存在なので、
遠い方が身体によいというのもうなずける。


食、健康、環境などの問題は、
科学の知識がベースにないと、
よいか、悪いかの
手がかりすらつかむことができない。
日本の教育システムは、
この大切な科学の教育をおろそかにしている。
私も受験偏重、暗記中心の教育を受けてきた
子供の1人であるが、
今さらながら、
科学を学ぶことの重要性に気付いた。
テレビから流れてくるいい加減な情報を鵜呑みにする前に、
科学の基礎知識を身に付け、
科学的なものの見方ができるようになることの方が、
よっぽど重要だとやっとわかったのだ。
今回の「あるある」騒動は、
大変よい勉強になった。